アラサー隠居

バンライフ、旅、持病のIBS(過敏性腸症候群)、読んだ本などについて

「本統」「年々歳々」志賀直哉と井上靖の手癖フレーズ

珍しく小説に手を出し、志賀直哉の「小僧の神様・城の崎にて」を読んでいたら、気になる表現がありました。「本当」と書くところを、「本統」と書いているのです。 

 

 

昔の人は「本統」と書くのが当たり前だったのかと思いきや、そうでもないらしい。

同じ発見を、脳科学者の茂木健一郎さんがブログで書いていました。 

lineblog.me

 

別の方のブログによると、宮沢賢治も「本統」を使うことがあったようです。

blog.goo.ne.jp

 

志賀直哉が「本統」を使った真意はわかりませんが、本を読んでいると、そもそも「ほんとう」という言葉自体が頻出することに気付きました。

最初は「統」という字が目立つので、「普通は読み流すところを意識してしまうだけかな」と思いきや、例えば本のタイトルにもなっている随筆「城の崎にて」では

・然し今は、それが本統に何時か知れないような気がして来た。

・あれが本統なのだと思った。

・しかも両方が本統で、影響した場合はーー

と、数ページめくるだけで、いくつもの「本統」を見つけることができます。

「城の崎にて」は志賀直哉本人の心境を書いた作品ですが、同じ本に収録されている他の短編小説でも登場人物が「本統に」などと言っています。

 

即興演奏を主とするジャズやブルースには、その奏者が頻繁に繰り出す「手癖フレーズ」というものがあります。志賀直哉の「本統」も、もしかすると手癖フレーズに近いのでは、と思いました。

 

以前、「井上靖全詩集」を読んだときにも「年々歳々」という言葉が頻出するのが気になりました。

 

井上靖全詩集(新潮文庫)

井上靖全詩集(新潮文庫)

 

 

詩集「北国」のなかだけでも

・年々歳々、なぜか父母のその夜の不幸を星の冷たい輝きで計量する私の確信は動かすべからざるものになってくる(記憶)

・年々歳々、その高い峰の白い花を瞼に描く機会は私に多くなっている(比良のシャクナゲ

・いかなる時代が来ようと、その高原の一角には、年々歳々、静かな白い夏雲は浮かび、雪深い冬の夜々は音もなくめくられてゆくことであろう(高原)

といった次第です。

 

即興演奏の世界で使われる手癖フレーズは、そのプレイヤーのオリジナリティを表すものであり、そのフレーズが繰り出されるたびにファンの心は沸きます。ただ、それを出しすぎると「ボキャ貧」の単調な演奏になってしまうので、手癖フレーズの種類を増やしたり、あるいは手癖フレーズに頼ること自体から脱却しようとしたり、ミュージシャンは苦労するわけです。

ミュージシャンがしばしば不本意に「手癖」に囚われてしまうのは、ノンストップで進行する即興演奏が「筋肉記憶」(フィンガー・メモリー)に頼らざるを得ない性質が関係しています。興味深いのは、優れた文筆家が熟考した文章においても、その兆候が見られるということです。

 

確かに上記の本を読んでいる最中、私はいつしか「本統」、「年々歳々」といった言葉を見つけるたび「また来たー!」と盛り上がっていました。頻度がまた絶妙で、多い多いと思いながら、いざ振り返ると、見つけるのにちょっと手間取ったりする。これは本統に、優れたミュージシャンが繰り出す手癖フレーズに似ていると思いました。