アラサー隠居

都心のサラリーマンから田舎の山麓に住む「隠居」に転身したアラサー男が、孤独な生活や持病のIBS(過敏性腸症候群)にちなむ体験談、本などを紹介します。

孤独だと過去を思い出してばかりだが、それも良いかもしれない

f:id:kizenarui:20210923151610j:plain

 

 人と会わない孤独な生活を始めてから、過去を思い出すことばかりしている。新生活の開始直後は、直近のサラリーマン生活について想起することが多かった。それが徐々に大学時代、高校時代、不登校だった中学時代、果てはそれより前の子供時代の記憶まで遡るようになっている。

 

 立花隆氏の「臨死体験 下 (文春文庫)」の中で、心理学者の杉本助男氏の研究内容が引用されていたが、人間を視覚・聴覚・触覚などを遮断した「感覚遮断」の状況に置くと、最初は皆、空想の世界に入っていくそうだ。それが6〜10時間経過すると、もっぱら思い出にひたるようになり、最近の出来事から始まって子供時代や中学生時代の出来事まで遡るようになるのだとか。立花氏が引用したものと全く同じものではないようだが、杉本氏による同じテーマの論文が以下のリンクで公開されていた(感覚遮断環境下の人の心的過程(<特集>「極限状態における人間」))。

 

 私の場合、時間軸は感覚遮断状況下の人間よりもはるかに長くなる(思い出す対象が変異するスパンが数時間ではなく数カ月)が、思い出を遡っていく傾向はとても似ていると思った。人間にとって「何もしない」、「何も考えない」というのは非常に難しい。そのため、人間は外部からの刺激(私の場合は人との交渉)が途絶えると、自分の内部にある記憶をほじくり返す一人遊びを始めざるを得ないのだと思う。

 

 思い出す内容が楽しいことばかりであれば良いのだが、ネガティブ人間の私にとって、それは逆だ。過去に誰かに傷つけられた経験、そして自分が誰かを傷つけてしまった後悔によく苛まれる。しかし思い返すと、私は約30年の人生のなか、「今」を生きるのに精一杯だったのと同時に、「将来」について考える機会が多かったかも知れない。それは「希望」に満ちたものではなく、「不安」という感情が大いに混ざったものではあったが、不登校だった中学生時代は「高校進学ができるのか」ということについて、高校時代は受験や大学生活について、大学時代は就職活動について、サラリーマン時代は来年の異動について、といったように。

 

 30歳というタイミングで一度立ち止まり、過去の振り返りに集中してみるのも、それはそれで良い機会なのかもしれない。現在、不勉強な私としては過去に類を見ないペースで本を読んでいるが、本に書かれた内容を自分自身の過去と照らし合わせて有意義な発見を得られることは多い。こうした発見は、ある程度の人生経験を積んだからこそ得られるもので、仮に5年前の私が同じ本を読んだとしても、特段の印象は抱かなかったかもしれない。実際、以前読んだことのある本を再び読んで、思わぬ発見が得られたケースはいくつもある。当然ながら読書自体は勤め人でも可能なのだが、キャパシティの小さい私はサラリーマン時代、仕事のことで精一杯だったので、本を読むとしても仕事に関係のあるものばかりだった。今のように、IBS過敏性腸症候群)や心理学、哲学など興味の赴くままに調べて、自分の過去に当てはめていく余裕はなかったのだ。

 

 米国人作家のジョン・スタインベックは、「チャーリーとの旅」のなかで、「孤独の性質が身についてくると、過去も現在も未来も一緒になってくる。過去の記憶も現在の出来事も未来の予測も、みな等しく現在のこととなるのだ」と述べていた。私は、過去と現在が等しくなることには同感だが、どうも、「将来」までが「現在」に交わる感覚というのが、しっくりこない。なぜなら、今の私は進学や就職を当然のことのように考えていた昔と違って、具体的な将来が描けず、将来そのものが曖昧模糊としているからだ。