He is reclusive

バンライフ、旅、持病のIBS(過敏性腸症候群)、読んだ本などについて

「生きる意味」は問うのではなく問われている【読書ノート】「夜と霧/ヴィクトール・E・フランクル」

 

 

 ナチス強制収容所から生還したユダヤオーストリア人の精神科医(兼心理学者)が、被収容者としての体験を綴った記録。世界的な名著と評されている。数年前に一度読んだことがあったのだが、なぜかその時は回りくどい筆致ばかりが気になってしまい、内容があまり頭に入らなかった。改めて読んだところ、私がかねてからぼんやりと考えていた「人はなぜ生きるのか」というテーマについて、大変有益な示唆を得ることができた。前回読んだ時は、なぜ見逃してしまったのだろう?

 

 「死ぬ瞬間-死とその過程について (中公文庫)」の著者で知られるスイス人の精神科医、E・キューブラー・ロスの著書を読んでいても思うが、この時代を生きてナチスによる迫害や戦争の惨禍を間近に見てきたヨーロッパの知識人たちは、どうやっても肯定しがたいその歴史の過ちの「意味」を追い求めていたように感じる。過去はどんなに間違ったものであろうが変えることはできないので、どうにかそこに有益な「意味」を見出し、後世への教訓に仕立て上げていくしかないのだろう。「夜と霧」のなかに書かれた著者の「生きることの意味」についての一文も、「死んだほうがマシ」とも思える、生きる意味が見出しがたい地獄のような強制収容所生活のなかで発見されたものだ。

 

 わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。(訳:池田香代子

 

 私が「人はなぜ生きるのか」ということについて薄ぼんやりと考えているのは、やはり生活の幸福度が低いゆえに虚無主義に陥っているからだと思う。強制収容所生活とは比較にならないレベルだが。かつて熱をあげていた音楽や仕事への想いが冷め、何をやっても、楽しいと感じない。一方、人との交渉はストレスに感じるし、よく腹が痛くなる。「苦痛が幸福を上回るなら、生きる意味などないのでは?」となる。

 

 フランクル氏の言う「コペルニクス的転回」をし、人の生きる意味を社会や自然科学に対して問うのではなく、「自分が生きる上で、どんな意味を問われているのか?」と考えてみる。不登校に陥るほど内向的な性格も、忌々しいIBS過敏性腸症候群)も、何か意味のあるものにできるのかもしれない。私は4歳の頃に父親を亡くしており、当時は幼すぎて悲しみは無かったものの、その境遇を呪うことは未だに多いが、それも何か、意味のあるものにできるだろうか。フランクル氏は、その答えは言辞ではなく行動によって見出されると説いている。私にとって今必要な、そして世間から期待されている行動とは、どんなものだろうか。

 

 ところで、フランクル氏いわく、収容所生活を耐え抜いた人は「粗野な人びと」よりも「繊細な人びと」の方が多かったようだ。それは、感受性の強い人びとは元々「おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国、豊かな内面へと立ちもどる道が開けていた」からだと分析している。

 

 確かに、「ミニヤコンカ奇跡の生還 (ヤマケイ文庫)」、「死のクレバス―アンデス氷壁の遭難 (岩波現代文庫)」、「大西洋漂流76日間 (ハヤカワ文庫NF)」といった、極限状況下で奇跡的な生還を果たした人たちの著作を読んでいても、それぞれが独特な、観念的な内的世界を持っているように感じる。アラサーになっても「生きる意味」など考え続けている私もおそらく繊細で感受性が強い傾向のある人間だと思うのだが、そうした性質はひとえに「弱さ」とは言い切れないのかもしれない。