He is reclusive

バンライフ、旅、持病のIBS(過敏性腸症候群)、読んだ本などについて

田舎道を歩行者同士ですれ違う気まずさは好意に変わる?

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 田舎の生活道路では、歩行者同士がすれ違う時に気まずい空気が流れる。都市部と違って歩行者がめったにいないので、大抵の場合は自分と相手が「1対1」の関係になり、妙に意識するからだ。

 

 私のような小心者の場合、数百メートル向こうから人が見えた途端、あれこれと考え始める。「すれ違うときに挨拶した方がよいのだろうか?」。挨拶は、まず「目を合わせる」という行為から始まる。その最適なタイミングはいつか?数百メートル先から相手を直視しながら近づくわけにはいかないし、すれ違う直前まであさっての方向を見つめてみるのも、妙にわざとらしい。どうすれば自然で、さりげなく、スマートにすれ違えるのか。そんなことばかり考えてしまう。

 

 「車社会」と呼ばれる地域で車を持たない生活をしているのは、運転免許を取得できない17歳以下の小中高生、免許を返納した高齢者、外国人労働者。それから、車がなければいっぱしの成人とみなされにくい社会にあって、車も持たず、働きもせず、のんべんだらりと暮らす隠居くらいだろう。小中高生や外国人労働者は、自転車で集団で疾走しているイメージが強い。私が住む地域で道を歩いているのは、もっぱら高齢者だ。

 

 夕方、私は山を10分程歩いてくだった場所にあるコンビニに買い物にいくことが多い。するといつも、同じような時間に同じ道を歩く高齢者が2人いる。

 

 一人は、70代くらいの愛想のよいおばあさん。私が「こんにちわ」と言えば「こんにちわ」と笑顔で返してくれる。ある時は、野外でも律儀にマスクをしている私を見て「マスク忘れちゃった」と小走りで去っていった。そういうお茶目な人だ。

 

 もう一人は、70代くらいのおじいさん。この年代の人にしては結構背が高く、痩せ型でスラリとして、渋い顔をしている。私と同じように夕刻のコンビニでの買い物を習慣にしているらしく、手ぶらで山をくだり、レジ袋とともに山をのぼっていく。

 

 このおじいさんが、恐らく私以上に人見知りだ。私との距離が縮まると、彼はいつも、立ち止まって路傍の草をじっと見ていた。それが綺麗な花などであれば、本当にそれに夢中になっているのかもしれない。しかし彼は時に、何もない空き地を眺めて、私と顔を合わせないよう努めているみたいだった。

 

 語尾を過去形にしたのは、私が引っ越してきてから1カ月半くらい経って、このおじいさんの様子が変わってきたからだ。私が軽く会釈をすると、軽い会釈を返してくれるようになった。私が遠慮気味に、マスクのなかでモゴモゴとした「んちわ〜」という低い声を発すれば、それ以上に低い声で「ん〜」と返してくれるようになった。

 

 確か外国人が書いた有名な本に書いてあったと思うが、人はたとえ会話を交わしたりしなくても、「頻繁に見かける人」に好意を抱くらしい。山麓を歩く謎の若者を何度も何度も見かけることで、無口で気難しそうなおじいさんの心が少しずつ、開けてきたのだろうか。

 

 私は、この記事を書いている時点で車の購入を決めている。車があれば、買い物は徒歩圏内から外れたスーパーで済ませて、歩いてコンビニに行く機会はほぼなくなるだろう。車社会における「いっぱしの成人」に近づくわけだが、それは山麓徒歩派コミュニティからの卒業も意味する。

 

 でもたまには夕方の散歩がてら、のんびり歩いてコンビニに行くのも良いかもしれない。愛想のよいおばあさんと無口なおじいさんに「そういや、こんなやついたな」と思い出してもらえるくらいの頻度で。