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無職がプロレタリア文学を読んだら【読書ノート】「蟹工船/小林多喜二」

 

 

 「ドン・キホーテ」に続く、今更読む名作シリーズ。賃金労働者の苦悩と反抗を書いたプロレタリア文学の代表作と評される本作を、無職の私があえて読んでみた。

 

 この手の作品を読むと、「自分ならどうするか」と考えさせられる。今の私がそのまま蟹工船の世界にワープした場合は間違いなく作品中の漁夫らと同様、現場監督からの暴力と理不尽に怒って反旗を翻すと思う。が、当時の日本ではまだ、労働運動自体が根付いていなかった(作品中では、ロシア領土のカムチャッカ半島に漂流した漁夫が、ロシア人から社会主義を教わったことが反旗を翻す契機となる)。乗っている船の世界だけでは、確かに労働者の数と力が監督側を圧倒的に上回る状況だが、永遠に船の上で生活するわけではないし、本土には家族と、今までと変わらない貧しい生活が待っているのだ。一度目のストライキは監督が軍の駆逐艦に助けを求めることで失敗に終わったように、軍国主義だった日本が国策として経済力の増強を図るなか、使役する側には軍の後ろ盾がある。一労働者として大胆な行動に出るのは非常に難しかったと思う。

 

 ところで、本作のようなプロレタリアート(賃金労働者階級)とブルジョワジー(資本家階級)の対立構造において、私のような「無職」はどのような立ち位置にあるのだろう?と考えた。

 

 プロレタリアートとしての生活から逃避して無職になることはある意味、資本主義への反抗だ。しかし、本作中でロシア人が日本人に教える社会主義の価値観は、端的にいうと「働かない人よりも働く人の方が偉い」。ここでいう「働かない人」というのは、金の力でプロレタリアートを使役し自分で汗をかかないブルジョワジーのことではあるのだが、単なる無職も「働かない人」には違いないわけだ。といっても今現在、無収入の私の生活を支えているのはプロレタリアートとして働いた時代の蓄えであって、今も決して株の配当や不動産収入といった不労所得を得ているわけではないから、私はブルジョワジーに分類されるような大層な人間でもない。

 

 こうした疑問を呈することは、私が社会主義(あるいは共産主義)について不勉強なことを露呈することになってしまいそうだが、富の再分配を重視する経済体制の下では、数年間の労働によって蓄財し、数年間を無職として過ごす「ミニリタイア」というスタイルは許容されるのだろうか。資本を労働者の使役に使うのではなく、単に自分が生きながらえるために消費していく状態というのは、肯定されるのだろうか。

 

 そもそも、働かない穀潰しは資本主義だろうが社会主義共産主義)だろうが肯定されるものではないかもしれない。しかし経済貢献の度合いだけで人の価値は測れるものだろうか?いよいよわからなくなってきた。