He is reclusive

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北へ(3日目)喜多方の花火は突然に

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 この日は観光名所などに立ち寄らず北方面への移動を済ませたら車内でのんびりしようと思って、栃木県日光市から福島県喜多方市を目指した。山間部にある町をいくつか通り過ぎたが、私が知るはずのないその町のひとつひとつに、なぜか強烈なノスタルジーを感じてしまった。

 

 恐らく、日本の多くの山間部の町というのは似たり寄ったりで、私が今まで見てきた別の町の情景と重ね合わせて郷愁を感じたのだと思う。しかし、大きく言えば「日本人」として同じようなルーツを持つ人間たちが似たような町を形成してきたのだから、実際の自分の故郷とそれ以外を厳密に区別する必要はないのでは、と感じた(そもそも私は山間部の町である首都圏のベッドタウンで育っている)。

 

 運転しながらそんなことを考えていたが、やはり目に入る景色が「今、初めて見るもの」とは思えない。もしかすると両親や祖父母、もしくはそれよりも上の先祖たちの記憶がうっすらと私のなかにあって、今、その記憶と合致する景色を見たことで「思い出している」のではないだろうか?確かプラトンの想起説もこういった類の主張だし(先祖の記憶が子孫の肉体に宿るのではなく、不死の魂が新しい肉体に宿るという意味だが)、気になってネットで少し調べてみると、親が後天的に獲得した記憶や経験が子に遺伝することを示唆する研究内容が見つかった(以下、参考リンク)。

 

ANAMNESIS(「想起説」の用語解説)

「学習行動」はRNAを介して子孫に遺伝する:線虫の研究から明らかに | WIRED.jp

「親が経験したことも遺伝して子孫に受け継がれる」という研究結果 - GIGAZINE

 

 もしかして、今、私が北の方角へ車を走らせているのも、自分自身の意志ではなく、先祖の記憶に突き動かされているのではないだろうか?などと考えながら道の駅・喜多の郷に到着すると、たまたまこの日は地域のお祭りをやっており、焼きそばやたこ焼きなどの出店があったり、歌謡ショーなどが行われていたり賑やかだった。夜にはなんと、この場所で花火を打ち上げるということだ。

 

 不意に花火に遭遇することは、先祖のではなく、間違いなく私の生後の記憶として印象深かったものがある。大学生のときに、千葉県の幕張メッセで派遣バイトの長時間労働を連日こなしていた時だ。ある日、バイトが終わった夜に、本当に「なんとなく」、帰るための駅方面ではなくマリンスタジアムの方面に歩いてみた。ちょうどマリンスタジアムの敷地内に入ったとき、目の前で豪華な花火が何発も上がった。この時は知らなかったのだが、マリンスタジアムではナイターの5回裏が終わったタイミングで花火を打ち上げることがあるのだ。試合中のスタジアムの外には私以外誰もおらず、暗闇にぽつんと立つ私一人のために花火が打ち上げられたような錯覚に陥り、とても感動した。

 

 喜多方の花火は決して私一人のためのものではなかったが、コロナ禍もあって数年は花火を見ていなかったので、偶然その場に居合わせることができて嬉しかったし、社会がアフターコロナ(もしくはウィズコロナ)に向かっている象徴のようにも見えて感動した。最初、一眼レフでの写真撮影を試みたのだが、なかなかうまくいかず、カメラと悪戦苦闘しているうちに花火が終わってしまいそうだったので途中でやめた。三脚で固定した定点の映像撮影に切り替えて、録画ボタンを押してからはずっと肉眼で楽しんだ。やはりどんな写真や映像も、生で見る迫力や美しさ、臨場感を凌駕できないし、花火の場合は特にこの差が顕著に思える。